光明院は真言宗智山派に属し、本尊は不動明王を祀る360年以上の時を刻む寺院である。光明院墓所内にある最古の墓は正保3年(1646年)と刻まれている墓地である
山門入り左手にある、弘法大師千五十回忌御遠忌の記念碑を見ると、明治15年12月に光明院住職 石井祐道師・本寺龍泉寺住職 森田竜海師・前住職 川口町東明院住職 田口真融師 さらには当家19代として海老原茂左衛門と刻まれて、寺同士のつながりの深さや檀信徒の心の寄りどころとされていたのがわかる。
現存する光明院の本堂は平成6年11月に建設された建物である。
本堂・庫裡落慶に伴い、本堂内、両祖大師 【弘法・興教】(元禄15年12月14日作 《赤穂浪士討ち入りの年》)の修復も行われた。剥げ落ちた色を塗りなおしたが、興教大師の塗りだけが何度塗っても赤い筋が浮き出てしまう。そんな中、地元住民の伝承話として次のような話を聞く。《明治時代に入り廃仏毀釈のあおりを受け、心無い住民が光明院の仏像を壊そうという騒動が起こった。そのとき、御堂を守っていた老婆が身を挺して、興教大師像を守った。その老婆は、像を守った時に、頭を棒のようなもので殴られて、傷を負ってしまう。心無い住民は、命をなげうってでも仏像を守ろうという、老婆の姿に恐れをなして、その場を離れていった。》
その話を聞き、当時の住職が懇ろに経をあげ供養を行い、再度塗りなおすと、不思議と頭の赤い線が出ることはなかった。
現在は、長く明治時代より無住であった寺を現在の住職が中興開山。檀徒の心のより所として葬儀、法事、祈願を行い、更には誰でも参加が出来る、ご詠歌、写経、書道教室を行い地域に開かれた寺となっている。